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ショートメッセージ


2018/04/24

保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱  西部 邁 著

エッセイの語源はエグザミン
諭吉は『文明論之概略』において公徳心の大切をまずもって説いたのであり。具体的にいうと「廉恥・公平・正中・勇強」の公徳心が文明におけるソサイアティ(社会、人間交際の場)の礎石だと論じた。ついでに言及しておくと、諭吉は江戸期の儒学が「潔白、貞実、謙遜、律儀」という私徳にのみ関心を集中して、公徳を軽んじたがゆえに封建の身分制のなかから一歩も踏み出せないのだということを論難したのであった。
新技術を新宗教として崇拝する。
技術化とは人間精神の科学への偏向のこと
問題は人間の生活が技術などによって全面的に形式化と計量化を受けるような単純なものであってよいのか、それは人間尾ロボット化・サイボーグ化に過ぎないのではないか、という一点である。
G・ヴィーコが、17世紀にあってカルテジアン(R・デカルトその人よりもむしろ、その合理論に素直に付き従う追従者たち)を指して、「全てを単純化するあの恐ろしい人たち」と呼んだのは、人々の経験農地に胚胎しているはずの複雑な歴史感情や生活感情の襞がすべて鉋にかけられたように滑らかにされてしまっていることを慨嘆してのことであった。-ヴィーコなどというほとんど誰も知らない人間の名前などださんでくれと当編集部はいうが、「デカルトの敵」(清水幾太郎)が西欧にいてというのは誰もが知っておいたほうがよい文明史上の事実であろうー。
適応主義は自己喪失のための早道。
指導者の演説や追随者たちの世論が改革なるものをほぼ無条件に礼賛してきたのはなぜであろうか。その背景には「人間が真剣に叫び立てる意見はおおむね正しい」とみるヒューマニズム(人間中心主義)がある。要するに「ヴォクス・ポクリ、ヴォクス・デイ」(民の声は神の声)という(古代ローマ帝政期での)思い込みが今なお健在だということである。歴史的に醸成された来たった公徳心に違うものをまで改善とみなすのは、ドグマ(独断)にほかならない。面白いことに、ドグマの語源的な意味は「よいもののように思われる」ということなのだ。人々の多くが賛同する変化を何はともあれ進歩とみなすのは人類の歴史を通じてのドグマなのであろう。今の日本に顕著なのは、それをドグマだと指摘するものがあまりに少なすぎるということではないだろうか。
「変化によって失いものは確実だが、変化によって得るものは不確実である」(M・オークショット)。
現実的な根拠のない理想は空想にすぎない。つまち秩序なきところで自由を追い求めれば、ほぼかならず放縦へと舞い上がる。
折衷といい中道といい、理想と現実のあいだに鋭く深い矛盾がわだかまっていることに気づいていない。ここで活力・公正・節度・良識というのは、理想と現実のあいだに危機が胚胎していることに十分に留意しつつ、なおも両者のあいだでバランスをとろうとする、きわめて困難な作業を指すのである。
対米戦争で生き残った日本人の多くは、「連合国の正義と枢軸国の卑劣」という観念の構図を進んで受容した。つまり国家としての自立・自尊をみずから投げ捨てたのである。まさしくアンダードッグ(負け犬根性)にふさわしく「安全を生存」が戦後日本人の生き方となってしまったのだ。
競争に傾くのがアメリカ型であり、協働を重んじるのは日本型であり、強制を受け入れやすいのはロシア・中国型であり、そして認識を重んじるのは西欧型だと分類できよう。
法律の前に国家の伝統があるとわきまえとおかなければならない。
「人間は急峻な山脈の尾根を、伝統という名の装備を手にして、歩く」存在。


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