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2012/03/29

古東哲明著  ハイデガー=存在神秘の哲学 読了

 いままで知らなかった世界は新鮮でした。最近は子どもたちまでが「いい想い出になるね」「思いで作ろう」と言っている事が気になっていました。その違和感の本質を言語化できていませんでしたが、これが明確になった気がします。想い出づくりは、今を生きるのではない、ある意味不誠実な生き方、ということだったのです。今の充実を、とこの本を読んで、あらためて感じさせられました。以下は本書からの引用です。

宗教がどこまでも此岸の生の事実としておこる体験にもとづく、ということである。中略 此岸なる無限者(宇宙自然)にたいする「絶対的な依存の感情」。それこそ宗教の本質。

こんな凄い存在を可能にしたなにかとして、神なるものを想定しても不自然ではない。

ニーチェ同様に、かれも思う。神は死んだ。「最初に設定された神」や「途中ですがる神」。そんな神なら死んだ。死んでもいい。そんなもの神じゃないからだ。<ほんとうの神>はだからーおそらく原始キリスト教の崩壊のあとずっとー死んだままだった。殺したのは、神学者をふくむ、とりわけ近代人だ。

まずは世界の存在への驚きの経験がある。世界が在るなんてことが<在る>ことを奇跡と感ずるほどの、それは不可思議さに撃たれる体験。この存在神秘の体験が、そのあまりにもの<説明できなさ>ゆえに、説明の方便をもとめて、「神創造のおとぎばなし」をうみだしたほどだった。

ほんとうに自由な哲学の出発点に立とうとする者は、神さえ放棄しなければなりません。中略 ひとたびすべてを捨て、自分もすべてに捨てられた者、すべてを奪い取られ、はてしなく自分だけを見つめてきた者だけが、自分自身の根拠を究め、生の底の底までを認識したことになるのです。

ほんとうの宗教性は、世界の根本的な分からなさにむかいあい、そのどうしようもなう不可解さ(非知性)への畏敬の想いをはぐくむところから、生まれるものだ。

理性的な動物から<現存在>への人間の本質変容

走り去ったランナーの残したクツ跡を、ランナーの生きたすがたと勘違いしているのと同じ。

難解そうにみえるかれ独特の議論はすべて、この「存在と無は同一」という簡単なテーゼをベースに、編みあげられている。

存在は最初から、そんな説明化や存在者化を超然とこえた秘密としてしか生起しない。だから、万物はそもそも、人間がわの自然な意味づけ・説明欲・合理化・生活感情を、横暴に踏みにじるという仕方でしか、存在しようがない。

ビンの底は、ビン全体をささえる土台である。だが土台をなすビンの底それ自体に底はないはずだ、もしかりに、ビンの底にさらに下か内部かどこかに、ビンの底をささえる<さらなる底>があるとしたら、そのさらなる底がほんとうの底になり、もはやビンの底は、そことはいえなくならからだ。だからもし、なにかが底(根拠)をなすものなら、その底それ自体は底なし(無根拠)でなければ、論理的にも、事実としてもおかしいことになる。

AとBは自立した二項ではなく、紙の表裏のように同じ一つのこと(存在、ピュシス)を、別々の角度からいい表わしているだけ。

死が人間存在(現存在)を内的に構成している。

生と死とを二者択一的に分断しては考えられない生死論。

瞬間が存在の時である。音や雲も端的にしめしてくれたように。

存在の無根拠とは、森羅万象が在ることに、いささかも必然的な理由も起源も目標もない、ということだった。つまり、万物は在る必然性などさらさらないのに在るという、存在の非必然性(根本偶然)を意味する。
 存在が非必然だということは、<万物は無くてあたりまえ、無いことこそオリジナル。在るなんてことがむしろ異様。なのに在る>、ということである。

 まぎれもなく現に事実として、<在るはずのない>多種多様な事物事象が、だれしも今のここに<在る>。非在でも不思議でないどころか、非在こそ理論上は当然であるはずのさまざまなものが、現に存在している。

 存在が念々起滅の刹那現象だということは、その始点がそのまま終点と重なっているということでもあった。

 一瞬一瞬が全面的に新しい再出発。不断の創造。どの瞬間もが新しい時の開始であり、その意味ではいつもつねに天地創造だということである。

ものみなすべてが、奇蹟の遭遇の時を刻一刻に織りあげることで、存在する。

 社会や地球全体がまるごと総動員してそそのかし、今日という一日ではなく、明日のこと、午後の予定、未来のこと、そして志望校や先進国や地球の裏側や月面などの<いつかどこか>ばかりへ、追い立て、駆り立てる。ココは黙殺。イマは擦過。だから、今日という一日の真ん中のこの場にどっかと腰をおろすことを、ゆるさぬ雰囲気があった。

<遠くを見る生活習慣>。これがすでにナチズムの兆候なのだ。

夢見る精神を可能にしている前提が、ニヒリズム。

ニヒリズムとはむろん、生や世界に究極原理が欠落している生存状況を意味する。あわせて、いつでもどこでもだれにもあてはまる真理(客観的真理)の不在を意味する。だから世界がニヒリズムであるとは、社会や人生や思考の営み全体がすべて、確固たるベースを欠落させたまま、営まれていることを意味する。

人間の存在や世界の存在に、必然的な存在根拠や理由や目標が、あろうはずがない。なのにちゃんとした存在理由や目的が在ると思いこんできた、これまでの人間の歴史のほうが、異様で変則的なのだ。ニーチェもいうように、「ニヒリズムが正常なのである」。

教会と神学の権威や信仰が崩落し、「神なき時代」になったとしても、基本は変わらない。「良心の権威」とか「理性の原理」となって、あるいは「最大多数の幸福」だとか、「歴史的進歩」や「民族主義」や「ヒューマニズム」や「世界標準」というすがたをとって、神の代用品(新しい神)があらわれつづけてきたし、おそらくこれからもあらわれつづけるだろう。だがそうしたものはみな、「教会的で神学的な世界解釈の変形にすぎない」。その世界解釈(目標設定と存在他律化でなりたつ様式=<遠く>をみさせる様式)。これが構造ニヒリズム(ニヒリズムの本質)である。

朝を創りだそうとして、何万何億もの電球を空にならべる痴愚。

問われていたのはこの世界の<存在>であり、その究極根拠(理由・目的・価値)がないということである。

いまという再びかえることのない時間は、明日のためにあるのではない。中略 いまが豊かでないのに、明日が豊かなはずがない。

戦時中の日本やドイツのことばかりではない。世界標準に追いつけ並べと声高に大同団結していう、今日の先進国の風潮もまた同じ。こんあ現代の状況を、ハイデガーは、「最大のニヒリズム」と呼ぶのである。

手段を代用し目的化することで、目的喪失状態を回避(隠蔽)するということである。

ゲシュテル 近代科学技術の本質

「人」と「為す」を合わせると、「偽」という字ができる。

 フロイトでは深層心理に焦点があわされる。フーコーやルーマンでは、社会システムとしての権力機構に焦点はあわされている。そんなちがいはあるにしろ、いずれも、人間の行為や思索は個々人の自由な意思で決まるとする近代的人間観や、人間主体へも信頼主義(ヒューマニズム)が、まさに根底から告発されている。人間の意志や機能を越えた何か超絶的次元に、ぼくたち現代人は気づきはじめたということである。

ゲシュテルとは、<手段の目的化(逆に目的の手段化)を強制してくる時代構造>。そいうっていい。もっとひらたくいえば、すべてのものごとを<有用・無用>という尺度で判別させ、すべてをある目的のために存在するもの(用象)とみなすよう強いてくる隠れた構造のことである。

自然科学的視野では、「算定できるものだけが実在するものだ」とする存在感が支配的になる。計算でき、数値化可能であり、だから確実に把握でき、反復可能だから制御も計画も予測もできるもの。その意味で、ぼくたちの生活世界に役立つもの(用象)として登場できるもの。それだけが存在するものであり、世界というわけだ。

反復(=計算)不可能な、唯一一回性とか、固有性などは、生存の視野からカットされる。

生殖や成育のメカニズムに手を突っ込んで、自然システムを改変する。「農業はもう今日では食品工場である。」以下は神山;土内の有機物の種類量の全てを分析し模倣することは技術的には可能であろうが、現時点では行われていない。土はすごい。

技術が、いわば<人間化>するわけだ。以下は神山;人間の機械化が現在は進行!?

混乱にふりまわされるそんな人間世界の台風劇をながめ、それに翻弄されていると、いつのまにか、つつましいこの人生劇を超然とこえた、なにかおおきなものの存在を感じはじめる。




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